2016年10月26日水曜日

上澄みだけの答え

頭の回転が速いってなんだろうね…。
言った事に対して、すぐに返事ができること?
質問に対して、すぐに正解っぽいことが返ってくること?
一見それは、頭の回転が速い、仕事が速い、切れがいいなどと思われがちだけれど、
上澄みだけをすくった答えを出す人っていませんか…?
私はそういう人が苦手です。

2016年10月21日金曜日

会社という村社会

いつか読んだ、ある方のブログに、会社は村社会という言葉が書かれていた。
思わず、なるほどと思った。
村社会という言葉をぐぐってみたら以下のような文章が最初に出て来た。

1 有力者を中心に、上下関係の厳しい秩序を保ち、しきたりを守りながら、よそ者を受け入れようとしない排他的な村落。 の決まりに背くと「八分」などの制裁がある。 2 同類が集まり、ピラミッド型の序列の中で、頂点に立つ者の指示や判断に従って行動したり、利益の分配を図ったりするような閉鎖的な組織・社会を1にたとえた語。(そのままコピペしました)

例えば、住んでいる場所が居心地が悪いとなぁと感じていた場合、なぜ居心地が悪いのかを考えると思う。自然と何が原因か感じている場合もあると思う。その時の対策として、自分をその環境に順応させるか、我慢するか、引っ越すかなどの対応をすると思う。

石の上に3年という言葉がある。またまたググってみると
冷たい石でも三年間座り続ければ暖まることから転じて、何事にも忍耐強さが大切だということ。「三年」は三年ちょうどの意味ではなく、多くの月日を表している。「石の上にも三年居れば暖まる」ともいう。(そのままコピペしました)

以前は我慢が美徳と考えていた私ですが、長年生きて来て、いろんな経験して来て、過剰な我慢は美徳ではない、冷たい石の上に三年いたって暖まらない事もある、更に言えばそんなことしていたら石は暖まるかもしれないが自分の脚が痺れてしまうし、身体がおかしくなる、というに風に考えるようになった。忍耐強さは必要なスキルだと思う、あればそれに越したことはない。でもそれは何事にもではない。

自分がめざす場所、こうして自分は生きて行きたい、生きていくんだというコトがある人、人生をかけてこれを成し遂げたいコトが明確な人は、自分の掲げた目標と関係ない(関係があるかどうかは後になってみないと分からない場合もあるが…)、闇雲に我慢することは不毛だと考えるのかもしれない。

一度息子に「石の上のも三年って言葉があるでしょう、少し続けてみてだめだったらやめれば」的なことを言ったことがある。そうしたら「その時間が無駄」という返事が返って来たことがある。

就職して、数年で辞めてしまう人に、根性無しとか我慢が足りないとか言う人がいるけれど、そういうことで辞めてしまう人ばかりではないと思う。自分にミスマッチだと思ったら早い段階から見切りをつけて去って行く人も多いと思う。

一度きりの人生、自分が成し遂げたいもの・ことがある人、仕事が手段でなく目的だと思っている人、目的を達成するのに十分なスキルをもっている人は、居心地が悪く、自分とミスマッチな会社(場所)と感じたら、そこを去って行く(去ることができる)人は少なからずいると思う。

私の場合、生きて行くこと、生活していくことが目的であって、仕事は目的ではなく生きて行く為の手段となっている。その会社という村社会が私にとってミスマッチだと感じていても、よっぽどの事がない限り、今はしがみつくしかないのだけれども…

2016年10月16日日曜日

一流って何?

何も持って一流というのか。
大企業だと一流というのか。
その企業が一流の仕事をしていなくても一流というのか。
名前が通っていれば一流というのか。
いわゆる偏差値の高い高校・大学、その他教育機関を一流というのか。
偏差値になんの意味があるのか。
まんべんなくいろんな事ができないと一流じゃないのか。
まんべんなくいろんな勉強をしないと一流じゃないのか。
何かに突出した才能を持っている人は一流じゃないのか。
何かに突出した才能を持ち、それを自分自身も分かっていて、それを活かして生きている人も一流だと思う。その人こそ、その人だって一流だ。
人には得意分野、不得意分野がある。向き不向きがある。
それに逆行してまで、自分に嘘をついてまで得意なふり、向いてるふりをする必要があるのか。
偏差値優先教育、偏差値優先社会なんてクソくらえだ!
人がなんと言おうが、自分の人生が一流だと思っていればそれでいいではないか。
 クリエイタ―:うっちん☆さん

2016年10月10日月曜日

さよなら今年の夏

お弁当に入れていた保冷剤。
通勤途中の暑い日に、時々お弁当入れから取り出して、首筋に当てたりして重宝していた。
乾いたのでしまいます。
また来年ね...
さよなら今年の夏、こんにちは今年の秋

2016年10月8日土曜日

例えばの人生

例えば、大好きだった趣味中心の人生を継続し謳歌していたら、幸せだっただろうか…。
例えば、仕事の出世にこだわった人生を送っていたら、幸せだっただろうか…。
例えば、ブランド品を身にまとい自分を着飾ることに執着をもった人生を送っていたら、幸せだっただろうか…。
例えば…。
いままで築きあげた物事を手放さなければならない、執着を捨てなければならなくなった時、もったいなく思い、そして、私が今まで持っていた物事を持っている人が羨ましく思えた時期があった。
誰も何にも言っていないのに、誰も何にも思っていないのに、誰も私のコトなんか気にしてないのに、劣等感と自己否定の感情を抱いて勝手に自爆している自分がいた。
でも、手放してしばらくしたら、これから築き上げなければならない物、こだわらなければならないコトに自然と取り組んでいた。
それは、私という人物にふさわしい生き方だった。身の丈にあった人生を生きるということだった。
例えばの人生を送る為に、タイムスリップしたいですか?と今の自分に問いかけてみる。
「いいえ、今の自分が好きだからこの人生がいいです。」という答えが返ってきた。
今まで、もちろん楽しいコトもたくさんあった。でも、悩んで、もがいて、這いつくばってやっとここまでやってきた。
過去は振り返らないとは言わない。過去があって今の私があるから。
たまに、後ろを振り返りながら、自分の生きざまを確認しながら、これからも人真似ではない自分の道を歩いて行く。

2016年10月5日水曜日

ロンちゃん

ロンちゃんは私が高校生の時に我が家(実家)にやって来たヨークシャテリアの犬。
生後2カ月の時に我が家の一員となりました。
毎日、ロンちゃんのいる家に帰るのが楽しみでした。

「お散歩!」と言うと耳をピーンと立て、ピョンピョン跳ねて、言った人に付きまとい、
その反応が可愛くて、おもしろくて、くり返し言っていました。
言ったからには、お散歩に連れて行ってあげなければ裏切り行為になるので、約束通り連れて行きました。

お散歩は、放し飼いに出来る海によく連れて行きました。
海に放すと、放したとたんに全速力で楽しそうに「はぁはぁ」舌を出しながら走っていました。

そのうち「海!」「ザッブーン」と言う言葉にも耳をピーンと立てて反応するようになりました。

ある日、家の近所の公園に連れて行った時、小学3、4年生くらいの男の子が「抱っこさせて」と言ったので、「いいよ」と言ってロンちゃんを渡しました。しばらくすると、その男の子はロンちゃんをわざと下に落としました。落としたと言うより投げ落としたという感じでした。ロンちゃんは「キャンキャンッ!」と泣いて、しばらく歩けませんでした。その子に「どうしてそういう事するの?」と聞くと、その子は下を向いたままでした。
 少し離れた所に友人と話しているその子の母親がいて、その鳴き声を聞き「あらあら…」と言っていました。というか言っただけでした。
「抱っこさせてっと言ったから抱っこさせてあげたのに、下に落したんです。」と告げると「エ~?」っとこれまたそう言っただけ。まぁ、その様子を一部始終見ていなかったわけだからそういう反応をしたのかもしれませんが…(その男の子の現在が気になるところですが…、あと母親も…)
 そのあと脚の状態が心配だったので、病院に連れて行くと、骨には異常がないということでしたのでホットしましたが…(そのせいかどうかは分かりませんが、晩年には脚が曲がってガニ股っぽくなっていました。)

そんなことがあってからも、海にはよく連れて行きました。相変わらず元気よく走りまわる姿を見て安心していました。

ロンちゃんは、特に珍しい一芸はなく、お手とお座りは彼氏が根気よく教えてできるようになっていました。
お世話は、ほとんど私の母がやっていました。


そんな我が家のアイドルだったロンちゃんも、私に息子が生まれてからはアイドルの座を私の息子に奪われてしまいました。

みんながロンちゃんの存在を忘れて息子のことを構っている時、ふと、ロンちゃんの方に目を向けると、ペタンとして寂しそうな表情をしていました。

それでも、ロンちゃんは息子が泣いていると吠えて教えてくれたりしました。
遊んでくれているのか、やきもちなのか分からなかったけれど、時々、息子の足をガリガリと引っかくこともありました。(そんなキツクではありませんが…)
 そんな時は息子を抱き上げ、ロンちゃんから遠ざけました。その時も、ペタンとして寂しそうな表情をしていました。

息子が成長してからも、何度もロンちゃんのいる実家に遊びに行きました。

アイドルの座は息子である、そんなことは既に分かって悟っていたのか、老化も拍車をかけていたのか、だんだんおとなしくなって行ったロンちゃん。

晩年は白内障、腎臓結石(手術2回)なども患い、最後の1年くらいは食事以外は寝て過ごしていました。

私は、実家に行ってもロンちゃんの存在を気にかけるのを忘れてしまっていたり、行っても頭を撫でて上げなかったりして、今思うと寂しい思いをさせてしまっていたのかもしれません。(体力がなくなっていたので、抱っこすることはタブーでしたが、頭は撫でてあげるべきでした。)

ロンちゃんが亡くなった日、母から泣きながら電話がかかって来ました。
「ロンちゃんが死んじゃった…」って…

最後は母の腕の中で「ク―ン!」と精一杯の声をふり絞っていたとの事です。それが「ありがとう」って言っているみたいだったよ…と母は言っていました。
それは、ロンちゃんにしか分からないけれど、そう思いたいです…。

それでもロンちゃんは17年間生きました。犬の中では長寿の方です。

私は、犬はもちろん動物は大好きです。でも、もう飼いたいとは思いません。
仕事をしていて、日中家に誰もいなくて寂しい思いをさせたくないということと、一番の理由はお別れが悲しいから…

ロンちゃん、楽しい時間をありがとう…。

※小学生の作文のような文章ですみません。

アマゾンプライムのCMを見ると、犬の大きさは違いますが、ロンちゃんのことを重ね合わせてしまいます。 





※息子が生後2週間くらいの時のロンちゃんとの写真です。
 アナログ写真をスマホで撮りました。



2016年10月3日月曜日

自分の正しいと相手の正しいは違う




たぶんあの人は私の事を気にいらなかったんだと思う。気にいらない存在だったんだと思う。たぶん今も気にいらないのだと思う。既婚者:独身、子育て経験者:未経験者、…「どちらがどうでどちらがこう」というのは主観になってしまうので書かないが、やはり相反する者同士、経験と前提が違うのだ。



私のやることなすこと、浅はかな考えの基(あくまでも主観)、否定されることが多かった。私の正しいとあの人の正しいは違っていた。私の正しいをあの人に押し付けることなく、一応、私の考えを伝えた。でもその人の正しいと私の正しい、そして経験も前提も違うため、伝わらなかった。伝わらないと分かっていても、一応、私の主張はしておいた。でも、あの人は、自分の正しいはいつも私に押し付けた。

ある時、絶対にこれは私の正しいを曲げられない事案が発生した。その事に対し私の正しいを威圧的に相手に伝えてしまった。それに対して相手も自分の正しいを私の正しいに対して全力で全否定と言う形でぶつけて来た。(威圧的に伝えてしまった事は反省しなくてはならない。これから気を付けようと思う。)

その後、険悪な空気が二人の間に流れた。今も流れている。でも、流れは変えなければいけない。一応、基本的な挨拶、声かけは変わりなくするようにしている。

今まで、あの人は自分の正しいを否定された事がなかったのかもしれない。あったとしても、相手の正しいを否定する形で自分の正しいを守り通していたんだと思う。

今、あの人は、ちょっと弱気になってしまっているように見える(そう見えるだけで本当のことは相手にしか分からない)。見ていて気の毒に思ってしまうが、ご機嫌とりなんかしない。

私も、自分の正しいと相手の正しいは違うと分かるまで、時間がかかった。そして、自信喪失になったこともある。

自分の正しいと相手の正しいは違うことがある。双方ともに自分が正しいと思っている。そのことを分かっていれば、少しは悩みやストレスも軽減できると思う。

人間は分かり合えないことも多いが、「それぞれに正しいがある」という事を知っていれば認め合う事は出来ると思う。

2016年10月2日日曜日

適正

恥をかくのが怖くて挑戦しないの?
その年でそんなコトも知らないの?って言われてダメージを受けるのが嫌で聞く事も挑戦もしない。委縮して出来なくなってしまう。


人それぞれ育ってきた環境、歩いて来た道、得意分野、興味が違うのだから、知らないことがあるのは当たり前。
あの人の得意分野は私の苦手分野、あの人の苦手分野は私の得意分野。
そんな事を当たり前のように自然と解りあい、認めあって、関わって行けたら、少しはみんなが生きやすい社会に近づくと思うのです。
だから、人の不得意なコトに対して優越感満載で、鬼の首を取ったかのように指摘するべきではないのです。


不得意なコトは一応は努力する必要はあると思うけど、不得意なコトに時間を費やすより、得意、好きなコトに時間をかけた方が効率的なのです。
得意で好きなコトをやっている人の顔は輝いているのです。


あなたの得意分野をあの人の得意分野に無理やりさせる必要はないのです。委縮して本来の実力を出せなくなってしまうのです。
誰にだって適性はあるのです。


あなたにだって苦手なコトはあるでしょ?
あなたの苦手なコト知っていますよ…。あなたの得意で好きなコトもね…。

2016年10月1日土曜日

空気なんて読まない


「空気を読んでくれよ」と息子がいった。


私は即座に「空気なんか読まない!」と返した。
空気を読むということは、その時点で影響力のある人などがやっているコトに気を配ったり、不快な思いをさせないように神経を使うコトだと私は解釈する。
息子はきっと、その言葉を発した時、私の何らかの言動に対して、少なからず、不快感を持ったのだろう..。それがなんであるか大体、察しはついている。
でも、私は不快感を与えようというつもりは毛頭なく、反対に息子の「空気を読んでくれよ」と言う発言に不快感を持った。
だから、「空気なんか読まない!」と言葉にして伝えた。
人の顔色を見て(空気を読んで)生きていくのはもうたくさんだ..。空気を読み過ぎて、心身をやられたコトもある。
「空気を読む」なんて言葉、大っ嫌いだ!
あと、「ツーと言えばカー」という言葉もあまり好きじゃない。
以前、職場の男性上司に「ツーと言えばカーだろう」と言われたことがある。それが出来ないと、気が利かないという風に判断されてしまう事があった。「俺の気持ちは察して当たり前」とでも思っていたのだろうか。
何度かそのような事があり、しまいには「言葉で言わなければ分からないです。」と伝えたことがある。
以心伝心という言葉と同じような意味合いだと思うが、自分はそのつもりで行った行為でも、実は相手にしてみれば違うコトを欲していて空回りしてしまう場合がある。空回りしてしまうことで、誤解を招き険悪な関係になってしまうこともある。
やはり、言葉にしなければ正確には伝わらない。言葉にプラスして、表情と声のトーンも重要だ。
「ありがとう」「愛している」などの言葉、家族間では言わなくても分かってくれていると思う。という考えの方は言葉に出して言ったほうが、よりより良好な関係が保てると思う。家族以外の人に対してももちろんのこと。
なんか、話しがタイトルと少しずれて来てしまったが、自分の抱いている気持ちは言葉にしなければ相手には上手く伝わらないのだ。空気では伝わらないのだ。
私は、「空気を読む」「ツーと言えばカー」という言葉が嫌いだ!
そんなの無視して、自分軸で生きて行くんだ!